清濁はカフェオレにして

女子大生の不定期手記

ジムに通い始めた。ダイエットとか、キレイになる、とかそんな殊勝な志があるわけではない。

大学の対面授業が始まったのだが、朝の通学だけで疲れてしまうので、これは体力をつけなければ授業など乗り切れない、と焦ったからである。

すっかり自粛期間で緩みきった体を叩き起こすのはなかなか容易ではないのでは、ジム通いも辛いのでは、と思っていたが、案外楽しんでいる。

運動嫌いなので、これはかなり意外なことだった。

あの空間は少し不思議だ。例えば、鏡の前でトレーニングしてる人が多い。しかも、めちゃくちゃ負荷がかかるトレーニングをしている人に限って、鏡の前だ。育ってきた筋肉を見ている人、ダンベルをすごい形相で持ち上げている自分を見ている人。

鏡を通して自分と会話しているのだろう。

私はムキムキになるつもりはないので、エアロバイクやちょっとした運動ができる機械を使って黙々とノルマをこなしている。

自分に課した目標に向かって集中できるのが良いし、動いている間は結構辛いので、大抵頭は空っぽのままでいい。

思ったよりも周りの人のことは気にならないもので、向こうも私のことなど見てもいない。

それが心地よいと感じるのは、新学期という環境にストレスを感じていたからだろうな、と思う。

新学期は精神的に厳しい時期だ。第一印象で割と色々なことが決まってしまう。そのため、気を遣うこともしばしばであり、人と関わることが苦手な私にとってはなかなかきつい。

幸い、談笑する相手や情報をやり取りする相手がいないわけではない。しかし、腹を割れる相手はそうすぐには見つかるものでもない。

学校生活をそんな風に感じている私にとっては、この一人に閉じこもれる時間は必要なものであり、一つの幸せにもなっている。

運動の効果も少しずつ感じている。息が上がりにくいし、通学だけで倒れる、ということもない。(満員電車はまだ慣れていないが。)おまけに少し前向きになれている気さえする。

通う期間は半年と決めているので、しばらくの間、私にしか見えない鏡の中の自分と、向き合う時間を大切にしたいと思う。

かき氷

最近、本当に流行に疎くなったなあと思う。もともと、敏感な方ではなかったが大学生の私が完全に遅れるはずがないと思っていた。

だって女子大生だぞ。若い方じゃん。

といっても、よくテレビやネットで流れてくるJK必須用語集、みたいなやつは大体2、3個知らない単語があるし、若い女性のバイブル!みたいな雑誌は一切読まないしで、何が流行っているのかよくわからないし、今までずっとそうだった。バイブルっていうのは聖書という意味だから、読まない私は、それらを読む彼女たちからすれば異教徒的存在になるのだろう。

それもいいな。私が流行を追わなくても、周りに敏感な友人はたくさんいるので、これからも、いざとなったら引っ張ってもらえばいい。

 

最近引っ張ってもらった事例は、かき氷だ。

かき氷って、家でガリガリ氷を削って、実は色が違うだけで味は一緒、というシロップをかけるイメージ。友人からかき氷食べに行こ、なんていう誘いを受けた時、正直、ほぼ水でできた食べ物を、わざわざ食べに行くなんて…と思った。ところが、最近のかき氷は私の想像を遥かに超えていた。

 

友人が連れて行ってくれたお店のメニューを見てみると、シャバシャバのシロップがかかったかき氷なんてものはなく、まるで洋菓子のようなかき氷が並んでいた。果実がごろごろしたシロップがたまらなく美味しそうにキラキラしている。こんなん美味しいに決まってるやん……。

 

初体験の相手は重要だ。何事においても。しっかりと品定めをして、ストロベリーミルフィーユ氷というのを選んだ。苺ミルクとか他にもたくさんあったけれど、これが私にとって一番魅力的だった。

 

運ばれてきて、まず驚いたのはそのサイズだ。ハンドボールくらいあるし、しかもその上から大量のカスタードクリームやシロップがかかっている。食べる前から溢れてしまって、お行儀が多少悪くても怒られないんじゃないかレベルだ。

上にちょこんとまるごとの苺がおすわりしている。白い氷にかかったシロップの赤さとカスタードの優しい黄色、ミルフィーユに欠かせないパイを砕いた茶色いフレークが、華やかなドレスを思わせる。めっちゃかわいい。色味だけでかわいい。

しかし、食品というものは、見た目だけではいけない。中身が大事だ。人間と同じく。

一口いれると、あっという間に溶けた。これは私が知っていた砂のような細かい氷の粒ではない。羽のような氷と甘酸っぱい苺、そして主役を立たせる甘さ控えめのカスタード、パリパリと奥歯で砕けるパイ生地の香ばしさ。これがかき氷か。

私は、かき氷に関しては未開人だったのだ。それを友人が最先端まで連れ出してくれた。

やはり、持つべきは友人である。

 

夏休み

大学生の夏休みは長い。そして、やりたいことがない、もしくはできない。

コロナのせいで、友達とわいわい旅行にでもと思っていたけど、かかってしまったら家族はもちろん大学に顔向けできない。初めから誰がかかってもおかしくないことは承知しているが、それを許さない世間が怖い。そういう学部のくせに!って言われて、玄関に張り紙でもされるんだろう。

三重大学の学生はかわいそうだった。友人に同大学の子がいるが、所属が同じということだけで判断され、批判されることに憤慨していた。

私にとって外出はハイリスクだ。かといって、友人に全く会いにいかなかったわけではない。バイト以外、誰とも会わず、家に閉じこもっている、そんな夏休みがあってたまるか。

しかしコロナ対策と経済再生の両輪を回すのは非常に難しいものだ。女子なので(?)、再会の喜びが体を突き抜けてしまうことが多く、大抵両腕を広げてハグをしてしまう。自撮りの時は、ほぼくっついて撮るし、食べものだって、そっちのちょっとちょうだいと言われる。密だし、最後のは間接キスに等しいので、最近は友人と同じものを頼むようにしている。

完全に気を緩めて遊べるわけではないものの、友人と過ごせる時間というのはいいものだ。特に予備校時代の友人達は別格だ。戦友、というか、いろんなことがあった。

変な話だが、私は予備校で彼女たちに会うまで、そんなにきらきらした生活を送っていなかった。なんとなく単調で大体明日のことは予想できる日々だった。しかし、その女友達二人に出会って、毎日たくさん笑うようになったし、青春はここにあったのだなあと思う。

大学受験に失敗した人間が集まるところで青春を感じるとか可哀想、なんて言われるかもしれないが、休憩時間に一緒に袋菓子をつまんだり、クリスマスを祝って小さなケーキを分けたり、入試直前期になったらお互いの勉強がどれだけ進んだかを見せ合うということがたまらなく楽しくて愛しい日々だった。

もちろん、これは全員が第一志望に掲げた大学、学部に受かっているという結果が大いに影響しているかもしれないが。

またしばらく二人に会えなくなりそうだが、これからもゆるく繫っていられたらな、と思う。

京都人の本音

SNS、主にTwitterなんかをよく見ていると、京都人は「怖い」というイメージを皆さんお持ちなんだな、と思う。

「元気なお子さんですね」→「うるさい子供やな」

ぶぶ漬け(お茶漬け)でもどうですか」→「そろそろ帰ってくれはらへん?」

などという解釈をよく見かける。

 

私は京都生まれ京都育ちで、二十年間京都から出ずに生きてきた人間なのでこういう投稿を見ると、なんだかなぁ、という気持ちになる。

 

確かに京都人はプライドが高いかもしれない。東京に奠都してから大分と経つのに「東京は東の“京都“」だなんていう人もいる。正直この屁理屈は京都人の中でもお笑い種だ。

しかし1200年間天皇家がお住まいになられてきた地、古くからの歴史が今もなお残り続けている地。そういう土地に住んでいるという自負が「本物の京都人」にはあるかもしれない。京都には他の地域に負けない価値があると思っているのだ。

しかし、これではただの郷土愛、地元愛だと思う。京都人じゃなくたって、自分にゆかりのある地域が一番だと思っている人はいる。

そういう人がいるのに、京都人ww乙w、みたいなことを言われていると、やっぱり納得いかないところが出てくる。

 

それに、二十年生きてきて、ぶぶ漬け・ハラスメントにあったことは一度もないし、したこともない。逆に、私はその存在を全国ネットのテレビ番組で知ったくらいだ。正直、都市伝説なんじゃないかと思っているし、第一、家に人を入れない。

特に京都は「着倒れ」文化なので、家とか、いわゆる日常生活に他人が入ってくるのをあまり喜ばない。

(大阪は食べ物にお金をかけるので食い倒れ、京都は服にお金をかけるので着倒れ)

 

じゃあ、ぶぶ・ハラはどこからきたのか?という話である。ぶぶ・ハラの起源には諸説あるが、一番、私が納得したものを紹介したいと思う。

 

京都の上流階級、中流階級の中ぐらいでは昔、大切な客人が訪れる時に、手料理を振る舞うことはなかった。

客に出す料理は全て、仕出し屋に頼んでもってきてもらっていたのだ。饗応に手抜かりがないようにしなければ外聞が悪くなったりするのだろう。もてなしにはかなり注意を払っていたようである。

しかし、おもてなしも金がかかる。客が長くいてくれるのはありがたいが、長くいられればいられるほど次のもてなしの準備もしなくてはならないし、日常の営みにも影響が出る。

そろそろ帰って欲しい…。ここでぶぶ漬けの出番である。

ぶぶ漬けは、お茶漬け、と言われているが、厳密にいうと白飯の上に京漬物を乗せ、その上から出汁をかけた「手料理」である。

客は主人の「ぶぶ漬けでもいかがですか」という言葉の裏に「家にあるもので良いなら何か出せるが、外に頼みに行くようなものはもう出せない」という意図を汲み取り、自身の長居を詫びつつ帰路に着くのである。

 

なんと奥ゆかしいやりとりだろうか。京都には様々な階級の人々が住んでいた。金銭的なことなどおくびにも出さずに、それぞれの限界を伝え、汲み取っていたのである。主人と客、お互いがお互いを推し量る気持ちを持たねばこんなコミュニケーションは成り立たないだろう。

そういった流れがある程度普及し、暗黙の了解となった頃、よその人がこのやりとりの表面だけを見て、ぶぶ漬け=帰れ、だと誤解したのではないか、と思う。

 

どうだろうか、少し誤解は解けただろうか。京都人はかなり地元愛が強いだけで、決して怖くはないのだ。

ちなみに私が、客にそろそろ帰って欲しい時は、普通に「お時間大丈夫ですか?私はこの後ちょっと用事がありまして……」みたいなことをいっている。

 

障害ってなんだろう

障害ってなんだろう。障害があるってどういう状態だろう。

そのことに最近頭を悩ませています。

これまた学校の課題なのですが、ずっと答えが出ずにいます。課題提出期限が連休明けなので、急ぐ必要があるのですが。

 

私は五体満足かつ過不足なく生まれ、たいした事故や怪我もせず生きてくることができました。いわゆる健常者です。

しかし、そうでない、と言われる人々も世の中にはいます。

身体に使えない部分があったり、外から見えない部分に問題を抱えたりしながら生きている人々です。

そういった人々のことを我々は、障害者、とよんでいます。

広辞苑を広げてみると、『障害』という単語には、妨げ、邪魔という意味あいがあります。

とすると、障害者とは、生活を送る上で、世の中の多くの人々よりも『乗り越えなければならないことを多く持つ』人のことだと考えられます。

そして、健常者はいつでも『手を貸すことができる』存在であることも忘れてはなりません。

 

しかし、これは非常に悲しいことですが、障害者がその字面のままに扱われ、否定されてきた過去があります。

日本ではかつて優生保護法という法のもと、障害を持つ人々の生殖能力を人為的に奪ってきました。

ドイツでもナチスの時代、同じようなことが行われていたようです。

過去と言いましたが、正直なところ、今でもその風潮は消えていません。

やまゆり園の事件や、ネットでもよく見かけるガイジという言葉には、哀しいかな、その考え方がまざまざと表れていると思います。

 

最近の社会は『綺麗』になりすぎているのだと思います。

少しでも異質なものや不可解なものをなるべく切り離して、見えないようにしている。思うような型にはまらなければ、訳アリとしてはじかれる。

 

確かに他人のことを全て理解するというのは不可能だと思います。

しかし自分が寛容になることは可能です。何かしらのサポートを試みることも可能です。

医療に携わる人間ならもっとできることが見えてくるはずだと思います。

私自身も将来その一端に加わる人間としてもう少し考えていきたいと思います。

 

興味はあれど…

やっと大学の遠隔授業が本格化してきているのですが、早速、哲学の課題で頭を抱えることになりました。

私は哲学科ではないのでこの授業は必修ではないのですが、後期のカリキュラムに哲学特論というものが必修科目として入ってくるので、来期の授業を少しでも楽にしようという目論みで選択したのですが、残念ながら現実は、そう甘くはないみたいです……笑

 

課題というのはギリシャ、インド、中国、日本の古典のどれかを一冊読み、読書感想文を書く、というものです。

家庭に本が山ほどあったりする方を除いて、手元にそういった古典があり、すぐ読み始められるよ、といった人は少ないんじゃないかなぁと思います。

私もすぐ指定されたジャンルの本を手に取れる環境にはなかったので、少し困ってしまいました。笑

 

しかし今はネットの時代です。探せば何かしらあります。あるはずです。笑笑

 

私は仏教に興味があるので、仏教の源流であるインドの古典について調べ始めました。

哲学の課題ですから、ものの考え方、捉え方について考えることができて、かつ、仏教やインドに触れているものがないかな…と思いながら。

そして私が行き着いたのは……

サンスクリット版 全訳 維摩経 現代語訳』

です。

要するにお経です。笑

 

お経というと念仏だったり、お坊さんが法要の時に唱えているというイメージがあると思います。それに正直何をいっているか分からない。

日本の仏教だと宗派によっては唱えるお経が違うということもあるようです。

実際のところ、日本に仏教が伝来する前に、既に成立していた維摩経勝鬘経は、どれだけ日本で仏教が発展し、宗派が分かれても変わりは特にないそうです。

またそのような仏教伝来前から存在するお経は、お釈迦様とその弟子や民衆とのやり取りやお釈迦様のお言葉であったりをまとめてあるものが多いらしいので、実はキリスト教の聖書と似ているところがちょっとあるように思います。

 

今はまだこの本を読み始めたところですが、思っていたよりも難しいです。和訳の後に著者による解説があるので、それを手掛かりに読み進めています。

今日は四分の一ほども読み進めていませんが、諸行無常、他人の利益になることを進んですること、世の中は汚いように見えるがそれは自分の心が汚れているからである、ということが書いてありました。なんだか身につまされるものがあります…

 

この課題の最終目標といいいますか、先生の目的は、古典を読むことを通して今の自分自身を見つめてみることのようです。

提出期限の5/8までじっくり読んでいこうと思います。ブログに読んで感じたことを書いて、最後にレポートに纏める時の足がかりにするのもいいかもしれません。笑笑

というわけでしばらくはこの本に関する記事が続具と思いますが、悪しからず、お付き合いくださいm(. . )m

コロナ、いかがお過ごしですか?

はじめまして!MISOらーめんと申します。二十代前半、女子大学生です。

ブログを書くのは初めてなので色々と試行錯誤が続くと思いますがどうかご容赦ください。

 

すっかり桜も散り、4月もあと一週間で終わってしまうわけですが、皆さんいかがお過ごしですか?

コロナウイルスの影響でリモートワークになったり、休校措置でお家にお子さんがいたりと、以前の生活とはまるっきり変わった生活を送っていらっしゃる方々も多いのではないでしょうか?私自身も大学での授業がなかなか始まらず、来週の月曜日からやっと、遠隔授業が始まっていく予定です。新しい先生方や教科を楽しみにしていましたので、直接授業を聞いたり、質問できないのが少し残念です。

 

不要不急の外出を長い期間控えるようになってから色々新しく見えてくるものがありました。元々、インドア派の人間なので、外出規制はそこまでダメージが無いだろうなぁと思っていたら、文字通り家から一歩も出ないと、なんだか身体や気持ちが重くなってくるのです。読書やテレビ、音楽を聞いたりゲーム配信を見たりして過ごしていると、初めは楽しいし、今まで見られなかった時間帯の放送も、すっかり暇になってしまったわけですからじっくり見ることができて、とても新鮮に感じるわけです。ところがどっこい、一週間もたたないうちに飽きがきてしまった。それまで、インドア派を名乗っていた私にとっては予想外の展開です。

 

外出自粛要請が出る前の3月中ごろやその前の時期では、「外出」という言葉は、何か楽しいことをしに行く、というニュアンスを含んでいたように私は感じます。買い物や学校、会社に行くことは、買い出しや通学、通勤と言い「外出」とは言いませんでした。ところが感染症のおかげで意味が変わり始めてしまった。文字の通り、「外に出る」こと自体を表すだけになってしまいました。ウイルスは人が外から持ち込んでくるものなので、外に出て家に帰ってくるという動きを注視しなければならなりませんから、私が感じていた明るいニュアンスを「外出」という言葉がなくしつつあってもこの状況下では仕方のないことでしょう。

 

学校行けば早く家に帰りたいだの、家でゴロゴロしたいだのと言っていたのに、今では玄関から外に出ることを切望している。かと言って同居している家族には基礎疾患があるので迂闊なことをするわけにもいきませんから、毎日ベランダでストレッチをしています。思い返せば、あのドタバタした朝の支度や通学時間が本当に必要な時間の一つだったのかもしれません。早く大手を振って外出できる日が来ることを祈ります。