ランドセル ~3.11に寄せて~
当時、私は小学生だった。ちょうど卒業する年で、地震の起きたその時には式典の準備に参加していたと思う。
京都は被災地から遠く離れているので目立った揺れもなかったし、その頃はスマホや携帯を持っていなかったので、知る由もなかった。
連日、震災関連のニュースや番組が放送され、CMは全てACジャパンだった。
この頃からだろう。ありがとウサギやこんばんワニというフレーズが定着し始めたのは。
何通りもあるわけではないCMを繰り返し延々と見続けるのにも流石に苦しいものがあったが、それを遥かに超えるのは津波の映像だった。
あまりに衝撃的で息が詰まる。未だにあの光景がテレビ画面に流れると苦しい。
船も自動車も家屋も人も、全部を薙ぎ倒して掻っ攫っていくあの波が、とてつもなく怖かった。
そして、家族を探して泣き叫ぶ人々の背中が、だた悲しかった。
なんとなく楽しくない日々だった。当たり前だ。
死亡者数は増え続け、原発が煙を上げた。この国は終わるんだなと幼心に思った。
しかし、自分の近辺にはそれほどの変化はないままだった。
静かに時間が流れてゆき、私は中学校の入学式を迎え、5月になった。
連休明けのある日、家にFAXが届いた。
『皆さんのランドセルを被災地に届けませんか』
私のランドセルは今は亡き父方の祖父が奮発して買ってくれたもので、普通のランドセルよりも少し材質が良かった。
そのために6年間背負われた後にも関わらず、全然しっかりとしていたので、どんなに乱暴に扱っても、あともう3年は使える状態だったと思う。
それに、毎朝学校に連れて行ってもらっていたはずの赤い鞄は、急に役目が終わって所在なさげであったので、誰か必要としている人に使ってもらうというのは、ちょうど良かったのかも知れなかった。
夕方、小雨で少し肌寒い日だったと記憶している。
小学校の事務室に紙袋に入れたランドセルを届けに行った。
少し寂しい気もした。
いじめや中学受験で親子関係がうまくいかない時の涙も、友達とグリコをしながら下校した笑い声もすぐそばで聞いていてくれた鞄だ。
短い12年の人生の半分を共にしたというのだから当然かも知れない。
でも、このお古が、誰かの役に立つことの方がずっと嬉しいことのように思えた。
そんなあの頃から早10年。もうあのランドセルは無いだろう。
けれど、私の手を離れた後、誰かの勉強道具を、未来を包んでいてくれただろうと、今も信じている。