京都人の本音
SNS、主にTwitterなんかをよく見ていると、京都人は「怖い」というイメージを皆さんお持ちなんだな、と思う。
「元気なお子さんですね」→「うるさい子供やな」
「ぶぶ漬け(お茶漬け)でもどうですか」→「そろそろ帰ってくれはらへん?」
などという解釈をよく見かける。
私は京都生まれ京都育ちで、二十年間京都から出ずに生きてきた人間なのでこういう投稿を見ると、なんだかなぁ、という気持ちになる。
確かに京都人はプライドが高いかもしれない。東京に奠都してから大分と経つのに「東京は東の“京都“」だなんていう人もいる。正直この屁理屈は京都人の中でもお笑い種だ。
しかし1200年間天皇家がお住まいになられてきた地、古くからの歴史が今もなお残り続けている地。そういう土地に住んでいるという自負が「本物の京都人」にはあるかもしれない。京都には他の地域に負けない価値があると思っているのだ。
しかし、これではただの郷土愛、地元愛だと思う。京都人じゃなくたって、自分にゆかりのある地域が一番だと思っている人はいる。
そういう人がいるのに、京都人ww乙w、みたいなことを言われていると、やっぱり納得いかないところが出てくる。
それに、二十年生きてきて、ぶぶ漬け・ハラスメントにあったことは一度もないし、したこともない。逆に、私はその存在を全国ネットのテレビ番組で知ったくらいだ。正直、都市伝説なんじゃないかと思っているし、第一、家に人を入れない。
特に京都は「着倒れ」文化なので、家とか、いわゆる日常生活に他人が入ってくるのをあまり喜ばない。
(大阪は食べ物にお金をかけるので食い倒れ、京都は服にお金をかけるので着倒れ)
じゃあ、ぶぶ・ハラはどこからきたのか?という話である。ぶぶ・ハラの起源には諸説あるが、一番、私が納得したものを紹介したいと思う。
京都の上流階級、中流階級の中ぐらいでは昔、大切な客人が訪れる時に、手料理を振る舞うことはなかった。
客に出す料理は全て、仕出し屋に頼んでもってきてもらっていたのだ。饗応に手抜かりがないようにしなければ外聞が悪くなったりするのだろう。もてなしにはかなり注意を払っていたようである。
しかし、おもてなしも金がかかる。客が長くいてくれるのはありがたいが、長くいられればいられるほど次のもてなしの準備もしなくてはならないし、日常の営みにも影響が出る。
そろそろ帰って欲しい…。ここでぶぶ漬けの出番である。
ぶぶ漬けは、お茶漬け、と言われているが、厳密にいうと白飯の上に京漬物を乗せ、その上から出汁をかけた「手料理」である。
客は主人の「ぶぶ漬けでもいかがですか」という言葉の裏に「家にあるもので良いなら何か出せるが、外に頼みに行くようなものはもう出せない」という意図を汲み取り、自身の長居を詫びつつ帰路に着くのである。
なんと奥ゆかしいやりとりだろうか。京都には様々な階級の人々が住んでいた。金銭的なことなどおくびにも出さずに、それぞれの限界を伝え、汲み取っていたのである。主人と客、お互いがお互いを推し量る気持ちを持たねばこんなコミュニケーションは成り立たないだろう。
そういった流れがある程度普及し、暗黙の了解となった頃、よその人がこのやりとりの表面だけを見て、ぶぶ漬け=帰れ、だと誤解したのではないか、と思う。
どうだろうか、少し誤解は解けただろうか。京都人はかなり地元愛が強いだけで、決して怖くはないのだ。
ちなみに私が、客にそろそろ帰って欲しい時は、普通に「お時間大丈夫ですか?私はこの後ちょっと用事がありまして……」みたいなことをいっている。